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母親の病との闘い日記1

この記事は以前に書いていたのだが、
色々な感情があり公開する気持ちになれなかったので公開していなかった記事である。

すでに起こっている事、今後の未来に起こる出来事に関連していく記事であるがどのような未来になったとしてもその時の詳細を残しておきたい気持ちになったので公開していく事とした。

書き出しが変な風になってしまっているので申し訳ない。本記事はタイトル通り。また、シリーズ化していくものであり感情的な文章となってしまっているかもしれないので読みづらい事があるかもしれない。
また、他の記事とは違う毛並みの為、合わない人は合わないだろうと思うので初めに謝罪をしておこうと思う。

 

まずは母親について書いておこうと思う。
母親は年齢も60を超えていて歩くのもものすごく遅く足が悪いので杖をついたり車輪のついたひっぱるバックを使用しているので階段の上り下りが出来ない。

昔から出かける事が好きではない人なので電車にも1人で乗る事が出来ない。もちろん切符を1人で買う事も出来ない。電車どころかエスカレーターも怖くて1人では乗る事が出来ない。サポート無しでは住んでいる所以外はいけない。また、三半規管が弱く乗り物酔いするので車にも乗る事が困難なのである。

他にも数年前に更年期障害と診断され、動悸、吐き気、嘔吐、息切れ、頭痛、眩暈、耳鳴り(右耳は今でもほとんど聞こえない)の症状がありとても状態が悪い事が続いていた事がある。父親は土曜日にしか休みが無いので、自分が仕事が休みの時に心配なので実家に行くと自分に具合が悪い所を見せたくないらしくとても嫌がり来ないで欲しいと言われたりひどい状態の時があったりした。今でも症状こそ軽くなったとはいえ、右耳は聞こえなく、耳鳴り、頭痛、眩暈がある。

目に関してもまた悪い症状がある。
母親は昔から視力が弱くて数年前から特に右目に関しては物がまったく見えないと言っていて、物を見るときは左目に頼っていた。
視力が低いので目が小さくみえてしまうぐらいの分厚いレンズが入ってるメガネをしている。
度が強すぎて頭痛や眩暈もあったりすると言っていた。また、ドライアイや涙があまり出ないという事もあり住んでいる街の眼科に長年に渡り通院しているのは知っていた。

 

2020年の2月の後半に父親から連絡があった。

通院している眼科では対応が出来ない状態になっているので別の病院を紹介するのでそこで手術を受けるという事になったそうなのだが、何日間かにわけて通院して検査、検査結果、手術前説明や手術などがあり、前述したように父親が土曜日以外は仕事で行けない為に自分の方に有給を使って母親の付き添いをしてくれと言った内容だった。

そんな経緯もあり、付き添いで2020年3月25日に電車に乗って住んでいる街以外の眼科に行ってきた話となる。
今回は手術前説明の段階だった。

 

診察室に自分も同席して入室すると、以前に撮影した母親の目の状態を見てもらった上で話をするとの事だったので画像が見れる場所に案内をされた。まずは健康的な目の画像と母親の現状の画像を医師から見せられた。
母親の目の画像は膿のような土色というか黄土色で、特に右目に関しては目の血管がほぼ見えなく他にも専門的な名称を言われたが覚えていないが他もまったく画像で確認が出来ない状態であるという事実を聞かされて、この為に両目を日にちをわけて手術しますという話だった。

この画像を見ただけでもかなりのショックだった。こんな風になるまで・・・。もし、20年とか前に嫌がってでも病院に連れて行ってあげたらとかを思っていたと思う。

場所を移動して医師のデスクがある所まで移動してからさらに説明があった。

母親の場合は一般の人に比べると眼球サイズが大きく、平均が23、4mmに対して母親は右が32で左が33mmで大きい為、点眼麻酔だけでは術中に痛みが伴う可能性が高いので、目に穴をあけて麻酔をしなければならないと言われた。立て続けに部分麻酔はするので痛くは無いが意識がある状態での手術であるという。
つまり、意識がある状態で目を手術するという。母親は脅えたが当然の如く自分も強烈な恐怖を覚えた。

その後も説明はあったのだが、その最初の言葉の強烈な恐怖により○○に関しては8000人に1人や○○に関しては5000人に1人というような悪いワードしか頭に入ってこなくなってしまってろくに聞けない状態になってしまった。

母親が以前から右目は見えないと言っていたので、医師に聞いて見た所、右目に関しては今でもほとんど見えていないはずとの事だった。そして、‪「右目は手術しても明るさを感じる事は出来るようにはなるが視力は戻らないので見えないままだろう」との事だった。‬だが、左目は右目に比べれば視力が回復する可能性は高いとの事だった。
さすがは医師は百戦錬磨のプロである。言わなくてはいけない事ははっきり言うが話のそらし方やタイミングは恐ろしく早く上手いと思った。

だが、母親はすっかり脅えきってしまっていた。それもそのはずで右目は見えていない状態とはいえ意識がある状態で目に穴をあけて麻酔したり手術しますと言われればその言葉だけにでも恐怖を感じて動じないという人は少ないだろうと思う。
自分まで取り乱すわけにはいかないので、気持ちがネガティブにさらわれてしまいそうな所を踏ん張って医師の話を聞いていたのだが、自分の目に弱々しく映る母親に不思議となんだか自分が小さい頃を思い出してしまっていた。

 

‪自分は小さい頃から身体も弱く、持病もあり小学生の時に右足の後ろを大きく切って縫ったりした事もあり心配と苦労をかけた。
思春期になると見た目こそ普通に見えるがいじめにもあった。みんなが親と出かけたりや社会科見学や旅行も行けなかった事で話題も入れないしその物事すら知らない。

自分は人と同じように出かけたりや出来ない事で劣等感が生まれて塞ぎ込むのも必然的になった。

そういった事が続くと人間はきっとおかしくなってしまうのかもしれない。
どうなったかというと持病に関しての事を言われたら、いじめと感じる事をされた場合は誰が相手でも構わない。負けるとか勝つとかそういう事ではなくやりあって倒さずにはいられなくなっていた。

人の取り方は様々だが、鉛筆を全部折られたり、自席の教科書や体操着が無くなる、給食を投げつけられる、ガムを椅子につけられるのは自分はいじめだと思っている。
でもそれをやっている犯人を見ていないとわからないじゃないと思うじゃないですか?さすがに学年全員からイジメをされていたわけではないので1度でもそうした事をしてきたやつらというのはだいたいわかりますよね。自分の場合は男女含めてだいたい20~25人ぐらいだったと思う。

だったらほぼほぼその中の誰かなんですよ。頭にきた時は犯人が誰かなんかどうでも良いので近くにいるそいつらのグループのやつ、もしくは頭を張ってるやつとやりあえばいい。犯人じゃなかったやつをターゲットにしてしまった場合は、相手は最初に面を食らったりするが自分としてはもう相手は誰でも良い状態なので問題ではなくなっているのである。こうする事でメリットもある事に後々気付く事になったのだが、今回はこういったいじめに関してのテーマでは無いので別の機会にでも書こうと思う。
でも問題を起こすと当然の如く家に連絡が入ったり、母親が学校に呼び出された。

 

ある時、母親を泣かせてしまった事がある。今でもその光景が浮かぶぐらいに強烈な印象である。

それは持病を理由に母親を責めてしまった事だ。中学2年の時だった。
なんて事だろうか、ちょっとした物事の口論から、
「こんな病気を持って生まれて来たくなかった」というような事を言って責めてしまった事だ。

母親は少し黙った後に下を向いて、「私のが(悪い部分という意味だと思う)強く出て産んでごめんね。」と泣かれた。

さすがに「あっ・・・」となってこの時にはいくら思春期だろうがダメな人間だろうが事の重大さに気付いた。
だが気付いた時には遅いという事もある。
これが今でも頭というか、心の中にあるシコリである。
当然、その日の夜に父親に物凄く怒られた。

1番後悔している事。怒られた事なんかじゃない。
母親に取り返しのつかない事をした事だ。

以前にも少し書いた事があるのだけど、ふとした事からタイムリープを知った。
過去にタイムリープしたいと思って試行錯誤をしていた事があると書いた。
たとえ、今より良くない人生になるかもしれないという覚悟を持ってでもタイムリープしたい理由というのが、中学2年の時のこの言葉を母親に言わないようにしたいのが理由なのである。それでも自分の想いが弱いからなのか、はたまたそんな事は出来ないのかはわからないがタイムリープ出来なくてあきらめたという経緯がある。そんな都合良く人生を書き換える事なんか出来ないと理解したのも30歳を過ぎた頃だった。

 

話は、眼科の話に戻る。
医師から現状の目の状態、手術しても再手術になる可能性のある話、失敗する可能性の確率、術後に細菌が入ると亡くなる可能性。医師としては患者に説明にしなければならないという事は理解出来る。しかし母親はとても神経質で弱い人間なのでかなり気を落としてしまっていた。

一通りの説明が終わり、診察室から出ようとした時だった。
母親は意気消沈してしまっていたので、医師やまわりの看護師3人が色々と励ましの言葉をかけてくれていた。
「大丈夫!大変だけど痛くないようにしますから頑張りましょう!」
「すごい先生だから大丈夫よ!」

そんな励ましてくれている有難い言葉を背にして自分が先に診察室を出る所だった。

「息子さん来てくれて良い息子さんだね!」‬と言ってくれた年配の看護師の方の声が聞こえた。

‪そう言われると母親は急に嬉しそうに元気に「そうなんです。気持ちが優しくて自慢の息子なんです。産んで良かった!」‬と言った。

「産んで良かった」という言葉で振り返ったその時に、今までの思いと言ったら良いのか、感情と言ったら良いのかよくわからないのだが、とてつもないスピードでこみあげてくる「何か」で泣きそうになってしまったがなんとかその場をこらえ待合室へと向かった。待合室でも会計を待っている時もなんとか冷静を装うことで泣かないようにした。

自分は小さい頃は「手のかかる子」だったに違いないし、母親にひどい事を言ってしまった事がある。
それなのに、人に対して恥ずかしがるそぶりも無くあんなにもはっきりと「産んで良かった」と言える母親に対して色々な感情があってこみあげてきたものだろうとは感じた。

自分が経験した「振り返ったその時」は、こういったご経験がある方もきっといるかもしれないと思う。一瞬の出来事なのではあるが一瞬ではないような感じ。時が止まってはいないがその場が止まっているようなイメージで、瞬間ではなく、瞬間の中に出来事があるというかなんとも伝えづらい場があったのである。

次に眼科に行くのは2020年4月15日。手術の日である。
そう、この記事を公開する事にした日の前日に起きた事である。

斯くして、心が感情で震えるのも千里の道も一歩から。

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